SUIRYO 翠陵 vol.89
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10SUIRYO 89テニス選手としての最大の目標は、「グランドスラム」と呼ばれる世界4大大会での優勝です。それでも、パラリンピックの舞台となるとまた特別です。前回の東京大会が無観客での開催だったこともあり、今回はより特別なものになりました。パリパラリンピック直前の6月に出場した大会では、観客もリピーターやファンが多い印象でしたが、パリパラリンピックでは、車いすテニスを初めて見る方が多いなか、選手それぞれがいいパフォーマンスを見せていたこともあり、シングルス、ダブルスともに決勝戦の会場は満席となっていました。車いすテニスのこれからにも期待し、楽しみに思う気持ちを味わった大会でした。郷里の島根県でも、日頃から自分を支えてくれているたくさんの方にパリパラリンピックの報告ができました。実際に銀メダルを見て喜んでもらえたことが、とてもうれしく、これまでも周囲の方々の熱い思いを感じていましたが、より実感し感謝の気持ちが湧いてきました。特に子どもたちの反応には感動するものがありました。大会を終えた今でも金メダルを逃した悔しさの方が強いですが、この悔しい気持ちを無駄にせず上達の原動力にして、プレーヤーとしてまだまだ強くなりたいと思っています。子どものころからスポーツが好きで、テニスは小学生から始めました。将来はテニスに関わる仕事に就くことを夢見て、高校でもテニスに打ち込み、ダブルスでは県総体の準優勝という実績をあげました。しかし、高校3年生のとき、左すねに骨肉腫が見つかり、左ひざに人工関節を入れ、医師からは「スポーツは諦めてください」と言われ、絶望の中リハビリを続けることに。とても前向きにはなれませんでした。そんな時、理学療法士の先生から、「もし障がいをもった君が理学療法士になれば、他の誰よりも患者さんの気持ちがわかる理学療法士になれる」という言葉をいただきました。ハンディをマイナスではなく、プラスへと考えを切り替えることを教えられた瞬間でした。理学療法士という目標を見つけることができて、自分の障がいを前向きに受け止められるようになり、神戸学院大学の総合リハビリテーション学部に入学しました。その後、車いすテニスの第一人者・国枝慎吾さんの動画を見て、その姿に希望を見いだし、競技の道に入りました。大学に入学して1年後の2010年4月、神戸オープンという大会で準優勝した直後、国枝選手に「一緒にロンドン(パラリンピック)をめざしてみないか」と声をかけていただきました。国枝選手の試合を観戦し研究していくうちに、今のままでは2年後に開催される2012年のロンドン大会には到底間に合わないと気づきました。国枝選手の誘いを受けて間もなく「ロンドンに行きたいです」と返事し、その2か月後には、千葉県柏市にあるテニストレーニングセンター(TTC)へと向かいました。両親には、ロンドンパラリンピックをめざすために説得をする資料を作り理解を求めましたが、父には強く反対されました。しかし母は、せっかく助かった命なのだから、自分の好きな道を歩んでほしいと言ってくれました。時間はかかりましたが、そんな母の思いを父が受け入れてくれ、今では私のことを一番応援してくれています。親として子を一番に思うからこそ、反対した父と応援してくれた母の存在、思えば両親の意見が正反対だったからこそ、自分に厳しくその道を選んでいく覚悟を強く持つことができたと思っています。岐路に立つたびに、さまざまな方との貴重な出会いとつながりの中で、今日に辿り着いているといつも感じています。現在のトヨタ自動車株式会社に所属することになったのも、地元・出雲で講演をさせていただいたことをきっかけにお世話になった方々がつないでくださったご縁です。周囲の人に応援してもらい、支えてもらいながら、今はしっかりと自分で決めた道を歩くことができています。いつもポジティブだと言われますが、ネガティブな気持ちは決して悪いことではないと思っています。どんな時でもしっかりと自分や周りと真摯に向き合ってこそ、人としてさらに成長することができるのではないかと思っています。「継続は力なり」、自分の中で一番大事にしている言葉です。何も見えてこないと思うことでも、自分で考え動いて挑戦し続けることで見えてくるものが必ずあります。2028年ロサンゼルスパラリンピックまでの4年間で何ができるか、次のステージを楽しみにしている自分がいます。■4度目のパラリンピック出場で得たもの■車いすテニスを始めて、 1年でパラリンピックへの道を切り拓く■人に恵まれて今日を迎える、 思いはさらにその先へ車いすを自在に操作するチェアワーク、安定したショットと緩急をつけたプレースタイルを武器に世界へ躍進

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