SUIRYO 翠陵 vol.90
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たかを間近で見てきましたから、私が引き継ぐ際は、いかにして「和」を取り戻すかを一番に考えました。私が会長職にあった際のモットーは「集って楽しい同窓会」でしたが、これはまさに、それまでの殺伐とした、議論に明け暮れた時代に対する一つの答えでもありました。私の周りに、実務を支えてくれるすばらしい人材がいてくれたからこそ、大過なく務めることができました。特に木村さんのような、活動の中心となって動いてくれる方々には、私以上の苦労があったのではないでしょうか。木村(第5代):前田会長が掲げられた「集って楽しい同窓会」という精神は、6年という在任期間を通じて組織の隅々まで浸透していきました。そのおかげで、私が第5代を引き継いだ頃には、組織運営は非常に穏やかなものになっていました。かつてのように、会議の場で声を荒らげるような方はすっかり少数派になり、みんなが同じ方向を向いて活動できる土壌が完成していたのです。前田(第4代):私が自由に動けたのは、西本さんと同郷という縁もあり、西本会長時代に同窓会役員として多くの経験を積ませていただいたことが大きかったですね。当時は12支部だった組織を、なんとか20支部まで拡大しようと無我夢中で動いていました。その過程で、木村さんのような優秀な人材とも出会うことができました。私の同窓会活動の原点を振り返ると、1998年の高知県支部立ち上げに遡ります。実はそれまで、私はあまり同窓会活動に深く関わっていませんでした。ところがある日、大学時代の茶道部の先輩から一本の電話があり、「高知に支部を作れ」と。先輩後輩の厳しい関係性は卒業しても変わりませんから、二つ返事で「はい、分かりました」と(笑)。当時の西川会長に申請し、5番目の支部として誕生させました。幸い、10年ほど後輩の在学生たちが「高知県人会」を作っていたので、彼らの力を借りることで形にすることができました。司会:茶道部のつながりが、全国の支部設立に大きく寄与したというのは興味深いお話です。り、土台を固めようと孤軍奮闘されていたのが西川さんでした。司会:西本会長は、ご自身が第3代会長として就任された際を「緊急登板」と表現されています。西本(第3代):西川さんが蒔いてくださった種が芽吹き、ようやく「発展のための風土を作ろう」という気運が高まってきた時期ではありましたが、当時の状況は野球に例えるなら、先発投手の西川さんが苦労して投げ抜いた後、試合が成立するかどうかの瀬戸際で、私が3回か4回あたりから急遽マウンドに送られたワンポイントリリーフのようなものでした。当時は、突出したリーダーシップを発揮するのが難しい時代でもありました。私が会長を引き継いだ際も、周囲に集まってくれた有志たちが会則の整備などの基盤作りに尽力してくれましたが、一方で環境が整い始めると、今度は「自分こそが」と表に出たがる者も現れる。もしここで安易にバトンを渡してしまえば、せっかく築いたルールも元の木阿弥になってしまうのではないか。そんな予感と危機感があり、結局、私は最後まで完投する覚悟を決めました。今振り返れば、あの時にマウンドを降りなくて本当によかったと思っています。司会:当時はまだ、学生運動の名残などもあったのでしょうか。西本(第3代):そうですね、なかなかクセのある卒業生が多い時代でした。議論の場では一筋縄ではいかないことも多々ありました。みんな、同窓会を愛する気持ちや気概は同じなのですが、その表現の仕方や実行の仕方が十人十色で、それらを一つにまとめ上げるのは至難の業でした。ようやく同窓会らしい落ち着きを見せ、建設的な議論ができるようになったのは、私の任期の後半から、第4代の前田さんの時代にかけてのことです。 ■「集って楽しい同窓会」がもたらした 組織の融和―支部設立12支部から 20支部へ拡大―前田(第4代):西川さんや西本さんが、どれほどの激務と苦労を重ねてこられ■運営に苦労の尽きない 黎明期を経て、転換期へ司会:まずは、同窓会が産声を上げたばかりの黎明期の様子から伺いたいと思います。西川(第2代):同窓会の礎を築かれたのは、初代会長の奥藤さんでした。奥藤さんは愛知県の旭丘高校の夜間部を卒業され、一度社会に出てから、改めて向学心を持って本学に入学された方です。ですから、入学時点で31、32歳という、当時としては非常に落ち着いた、まさに学生たちの兄貴分のような存在でした。奥藤さんは、大学院に進学されました。また、会長就任当時は尾張一宮から通っておられたと記憶しています。正直に申し上げれば、奥藤さんは自ら進んで会長の椅子を望んだわけではなかったのでしょう。しかし、法学部や経済学部の1期生たちが同窓会設立に向けて動き出すなかで、最年長である奥藤さんが、対外的にも組織の長として最も相応しいと衆目が一致したのだと思います。私が会長を引き継いだ頃には、奥藤さんはすでに一線を退かれていましたが、何もないところから「同窓会」という看板を掲げ、下地を作られた功績は計り知れません。私が第2代会長に就任した翌年、1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生しました。同窓会の存在意義を考え直す重大な事態でした。同窓会の財産を卒業生のために使うべきだとする意見と、それに否定的な意見の対立で、とても悩みました。さまざまな議論を重ねた結果、募金活動を行いました。当時の新聞に、学生に対する安否確認、卒業生に対するお見舞いの広告を大学の学生課と共同で掲出しました。 西本(第3代):西川さんが会長を務められていた時期は、まさに黎明期の苦労を一身に背負っておられた時代でしたね。当時は組織として非常に未熟で、同窓会本部内はまさに「言いたい放題」の混沌とした状況でした。誰もが母校への思いは強いものの、それをどう形にするかというルールがなかった。そこで、なんとかして組織としての規律を作14SUIRYO 90 同窓会設立50周年記念誌 発行特別企画

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