1.孤軍奮闘の果てに見出した「一寸先の光」京都府支部を設立する最初の一歩。それは、一通の名簿を手に、見知らぬ土地の門を叩き続ける孤独な行脚から始まりました。「当時は営業の仕事の傍ら、名簿を片手に一軒一軒を回る毎日でした」と浪江氏は述懐します。「なぜ、自分はここまでして歩き回っているのか。何度自問自答したかわかりません。訪問先では冷ややかな対応をされるのが常でした。『卒業生が集まれば母校の力になれる』と説いても、『私には関係ない』と門前払いされる。冷たい視線にさらされ、心が折れかける日々が続きました。」名簿をほぼ当たり終え、絶望に近い感情が芽生え始めたその時、運命の出会いが訪れます。それが三宅孝幸氏との出会いでした。「三宅さんに出会えた瞬間は、まさに『一寸先は光』という思いでした。私の話を真剣に聞いてくださったのは、三宅さんが初めてだったのです。これまでの苦労が報われるような、心に沁みる出会いでした。この出会いがあったからこそ、私は再び前を向く力を得ることができた。支部設立の約5年前のことです。」一方、三宅氏も当時の驚きをこう語りました。「初対面の時は戸惑いました。セールスでもないのに、これほどまでに熱い人がいるのかと。しかし、当時、神戸学院大学の職員であった西脇隆雅さんからの紹介という縁もあり、彼の誠実な熱意に触れるうちに『この人がやるなら、手伝おう』と決意したのです。」当時の丹後地方の卒業生は、大学の職員である西脇氏の「まずは地元で集まろう」という助言を受け、最初の一歩として、神戸学院大学が参加する「丹後駅伝」の応援活動からスタートしました。20名ほどが集まったこの有志の会が、事実上の「丹後支部」としての産声をあげました。2.「支部あっての本部」という誇りと自立丹後での活動を足掛かりに、浪江氏と三宅氏は組織の正式認可を求めて動き出しました。有瀬キャンパスで開催されていた同窓会本部役員会に参加し、初代会長・奥藤氏をはじめとする役員たちの前で、支部設立の意義を訴えました。幹事会での粘り強い交渉の末、ようやく承認を得ましたが、本部の意向により名称は「京都府支部」となりました。当時の京都府内の卒業生は約1,000人。しかし、組織としての体裁は整ったものの、運営は苦難の連続でした。「当初は本部からの通信費すら出ない状況でした」と三宅氏は語ります。「最初の設立総会の案内を出すのも、内輪でカンパを募って何とか工面しました。当然、決算は赤字です。数年してようやく郵送代が出るようになりましたが、助成金が整うまでは金策に走り回る日々でした。しかし、私たちはそれを苦にはしませんでした。むしろ、『本部にお願いしなければ運営できないような支部なら、やる意味がない』という気概がありました。自分たちでお金を出し合い、自分たちで盛り上げる。その自立心こそが、活動の輪を広げる原動力になると信じていたのです。」この不屈の精神の背景には、西脇氏の存在がありました。「大学の職員である西脇さんは常に神戸学院大学を想っていました。西脇さんから大学のパンフレットを送っていただきました。」と浪江氏は語ります。浪江氏は地元の高校へ出向いては進路指導室にパンフレットを置き、実際に何人もの後輩を母校へと導きました。浪江氏自身も、西脇氏の勧めで神戸学院大学を選んだことから、その恩返しの念が支部設立の原動力となっていました。3.「後世に残る大学」の卒業生として ―卒業生が繋がり続ける同窓会、その基盤となる支部活動は大切な生命線―浪江氏が支部設立に情熱を燃やした背景には、もう一つの体験がありました。地元に戻った際、京都産業大学の同窓会が丹後で強固な組織を築き上げ、そこを起点に全国へと支部を拡大させていく様子を目の当たりにしたのです。「地域をまとめれば、必ず全国へ波及する。その確信がありました。だからこそ、まずはこの京都から火を灯さなければならないという“スイッチ”が入ったのです。」京都府支部という第一号の種火は、やがて大きな炎となり、全国へ広がっていきました。三宅氏は京都府支部長として22SUIRYO 90 同窓会設立50周年記念誌 発行特別企画
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