同窓生インタビュー
有限会社アートライフ
代表取締役
絵画をレンタルする事業で大学在学中に創業
アートとは無縁な大学生だった私が、絵画をレンタルする事業を始めたのは、アルバイト先のお客さんが画家で「絵の置き場で寝るところがない」という話を聞いたことがきっかけでした。手始めに、たくさんの画家に会うことだと考えて訪ねた先が大阪芸術大学でした。夏休みのキャンパスにただ一人、絵を描いている女性がいました。その女性にあなたの絵をレンタルの事業に使わせてくださいと熱く語ったところ、その方はなんと教授だったのです。「オモロイ奴がきた!」とばかりに他の教授たちも電話で呼んでくれました。ありがたいことに、たくさんの作品を預けていただくことができ、レンタル事業のための絵画が揃うことになりました。
壁画を描く事業『アーティストバンク』に転換
ほどなく、営業に精を出している頃にある店から「こんなにたくさんの絵描きさんがおるんやったら、直接壁に絵を描いてくれへん?」と言われことをきっかけに、友人の画家と一緒になって絵を描き始め、レンタル事業から絵を描く事業に変えることにしました。『アーティストバンク』と名付け、いろいろなところに壁画を描いたりイベントを行うようになりました。
有名なイタリアンのお店からフレスコ画の依頼を受けた際には、その作品の自信のある出来栄えから作品をメインにした広告を全国紙に出しました。キャッチフレーズの「わかりました。なんとかします」も響いたようです。全国にあるダイエーフードコートのオブジェを手がける頃には、日本中至るところから依頼が舞い込むようになり、ビジネスとしての確かな感触を得たのもこの頃でした。
幾多のピンチをその都度チャンスに変えて
阪神・淡路大震災は、事業面でも足元を揺るがす一大事。取引先の倒産があり、負債を背負うことになりました。しかし、「捨てる神あれば拾う神あり」のごとく、元請けであるゼネコンから直接大量発注をいただけるようになり、負債があったにもかかわらず、その年は黒字決算。信じられない乱高下を体験しました。それからは業績も順調で、2001年オープンのユニバーサルスタジオジャパンでは1年半かかってハリウッドエリアとジョーズコーナーのアートペイントを担当。数十人のアート職人を毎日送り込み過去最高益を上げました。
ターニングポイントともなったのが2011年の東日本大震災。仕事のキャンセルが多発するうえに、エースとして制作の中心を担っていた女性スタッフが産休に入ったことで、大きな決断を迫られることになりました。私はまったく絵は描けません。落ち込んでいた矢先、東映さんから戦隊物のトリックアート十数点という大きなオファーが…。悩んだ挙句「禁じ手」でもあったCGに切り替えました。それが大当たり。絵を描くことに比べて1/3程度に価格を抑えることができたため代理店や大手メーカーからもどんどん注文が入るようになりました。
同窓会報「翠陵85号」より抜粋